代表取締役 | 名前 | 小林 高志 |
生年月日 | 1976年5月19日 | |
出身 | 長野県上伊那郡 | |
最終学歴 | 大東文化大学 経済学部 | |
血液型 | A型 | |
好きな言葉 | 為せば成る、為さねば成らぬ何事も | |
略歴 | 1999年4月 | 株式会社日本システムコンサルタント入社 |
1999年5月 | 株式会社日立製作所出向 | |
1999年6月 | 商社の発注管理システムの開発、運用に携わる | |
2000年7月 | 商社の在庫管理システムの開発、運用に携わる | |
2001年3月 | 商社の勤怠システムの開発、運用に携わる | |
2007年4月 | 株式会社日本システムコンサルタント退社 | |
2007年5月 | 株式会社情報技術サービス入社 | |
2007年6月 | 社団法人の受注管理システムの開発に携わる | |
2008年9月 | 三洋電機株式会社出向 | |
2008年10月 | 販売管理システムの開発、運用に携わる | |
2009年2月 | 株式会社情報技術サービス退社 | |
2009年5月 | 株式会社エクスラント入社 | |
2009年6月 | 3キャリア公式サイトの開発・運用に携わる | |
2009年9月 | SNSアプリの企画・開発・運用に携わる | |
2011年1月 | Androidアプリ企画・開発に携わる | |
2011年2月 | iPhoneアプリ企画・マーケティングに携わる | |
2012年6月 | フォトスタジオ事業に従事 | |
2012年11月1日 | 株式会社woodsmallを設立 | |
2013年4月 | 株式会社エクスラント退社 | |
2013年5月1日 | 株式会社woodsmall代表取締役就任 |
今からさかのぼること3年前。平日の3日間は本社勤務で、商品の梱包、商品の発送。ウッドパネル用の画像の補正、753シーズンは台紙の作成なんかをやっていた。(要は雑用)土日は、実店舗で子供連れの家族の撮影。当時の会社にはシステムエンジニアとして入社したが、入社したての頃は、3キャリア向けの公式サイトの運用をやったり、当時流行っていたSNSアプリのプロジェクトを任されていたが、気が付けば動画の編集、そして撮影。という流れで、新規事業のフォトスタジオ事業に就くことになっていた。気が付けば、コードを書くこともなく。フォトスタジオでは、セールスの成績も常に1番だったし。元々仲間と輪になって、ってタイプでは無かったけど同僚とも楽しくやってたし。特に不満もなかった。ただ平日の本社勤務は単純作業の繰り返しで、プログラミングと違い頭も使うこともないし。ぼんやりと、この先のことを考えるようになっていた。入社したての頃は『出世』というのも意識していたが、仕事上でミスしたこともあり、降格もしていた。早い話、出世街道からは外れていたのだ。周りには俺より年下の上司も沢山いたし。『このまま会社に留まるか?』『転職するか?』このまま会社に留まることも嫌だし、かといって転職して一から人間関係を築くの嫌だ。「いっそのこと独立でもして起業したいなぁ」なんて現実逃避してみたり。ただ現実問題として、俺には妻もいるし子供も2人いる。下の息子は2歳。降格したこともあり、何を買うでもないのに毎月借金だけが増えていた。このまま現状維持していたら、沈んでいくだけなのである。だから現実逃避することが多くなってきた。俺が会社を作って俺が社長になる、という現実逃避。そんな時、故郷も近く割りと気が合う同僚に喫煙所で何気なく相談してみた。その同僚は過去に個人事業主として働いていた経験もあり、何か良いアドバイスをもらえるんじゃないか?という気持ちもあった。そこから大きく動き出した。自分でも驚く位のスピードで。
2012年10月24日喫煙所に行くと、運良く同僚がいた。そこに上司がいないことを確認して声を掛けてみた。俺俺、起業したいと思ってるんですよね。だけど会社が軌道に乗るまで、ある程度時間が掛かるし、どうしようかな?って思ってるんです。同僚だったら奥さんの名義で会社作っちゃえば良いんじゃないですか!?会社が軌道に乗るまで、サラリーマンして、軌道に乗ったら本腰入れるとか。俺そっか!それなら今の会社にバレたとしても問題ないですね!同僚そうですね、あくまで奥さん名義の会社ですから。問題ないと思いますよ。俺ありがとうございます!早速、デスクに戻って、当時勤めていた会社の就業規則を調べた。副業は禁止されているけど、配偶者のことまで書いてない。定時で速攻で帰って、起業に必要なもの、起業までに掛かる時間を箇条書きした。定款認証をする際は、自分でやるよりも業者に頼んだ方が安い。ってことで、その日のうちに業者に申し込んだ。申し込んでから5営業日で登記に必要な書類を揃えてくれるみたい。登記の際に必要になる、会社の印鑑をネットで頼んだ。妻は実印を持っていないので、妻の実印も頼んだ。印鑑の届く日も確認して、カレンダーを見る。11月1日は大安。この日を会社設立の日にしよう。会社を設立するには、『事業の目的』『会社名』『資本金』等の基本情報を決める必要がある。先ずは会社名。これは漠然と20代の頃から思っていたのにした。woodsmall小林を英語にして前後をひっくり返した名前。当時付き合ってた彼女に「俺、将来会社作るとしたらwoodsmall(ウッズモール)って名前にするんだ!」って言ったら、『大丈夫??もっと現実見た方がいいよ!』って言われたのを今でも鮮明に覚えている。事業の目的は業者に任せることにした。で、資本金。とりあえず1万位でいいや、ってことで10,000円。2012年11月1日登記の際に必要な20数万円をクレジットカードでキャッシング。法務局に行ったり、市役所に行ったりして、全てが終わったのが昼過ぎ位だろうか。終わってみれば、あっさりと。終わりと言うよりも始まりなんだけど。生まれつきの楽天的な性格と、思い立ったらとりあえずやってみる!という性格からなのか、思い立ってから1週間後には会社を設立していた。その時は『ダメならまたサラリーマンに戻れば良いんだし、何とかなるだろ』と思っていた。その日から当時の会社に出勤している時は、その仕事。休みの日は自分の会社の仕事、という激務の日々が待っていた。
当時勤めていた会社も753シーズンになって忙しくなってきた。ウッドパネルの注文も台紙の注文も山のようにあった。土日の撮影も昼飯が食えればラッキー位の忙しさ。休日は休日で、自分の会社の仕事。co.jpドメインを取得してコーポレートサイトを開設した。果たして誰かの目にとまるのだろうか?と思いつつ。その他にも会社名を商標登録した。さて、会社は何を本業にやっていこうか。実は明確に決めていなかったのである。休日にサンデープログラミングをしていたとはいえ、実業務では1年位プログラミングをしていなかったし。WEBサイト位なら作れるだろ、ってことでWEBサイトの受託開発をメインの事業にした。会社で売上を上げるにはどうしたら良いのだろうか?色々ネットで調べてみるも、胡散臭い情報商材のようなサイトがヒットするだけ。ならば逆転の発想。受託会社はどうしたら潰れるのだろうか?これだと何件かヒットした。受託会社は『仕事が取れなくて』潰れるのである。当然と言えば当然だが。ってことで直近の目標は『先ずは受託案件を受注すること!』それと並行して、年賀状を引っ張り出してきて、目ぼしい人(会社経営者、個人事業主)をピックアップ。片っ端から電話を掛けた。こちらは2件ほど仕事が取れた。そのうち1件は今でも継続的に仕事を頂いている。タウンページを引っ張りだして営業電話もした。割と自信はあったが、何件も冷たく切られて気持ちがめげた。これはフォトスタジオでのセールスでも感じていたことだけど、買わない人にいくら営業をかけても買わないのである。営業電話は、この日でやめた。WEBサイトを作ろうと思った人が、どういう行動を取るか?ということを考えてみた。周りの人に聞くかサイトで検索するかだろう。だから弊社のコーポレートサイトが検索上位に表示されることを考えた。世に言うSEO対策。でもそんなにお金もかけられない。実際に検索してみると仕事マッチングサイトがほぼ上位に表示されている。そこで片っ端から仕事マッチングサイトに弊社の情報を載せてもらった。その後、この戦略が見事に当たって初の受注を獲得するのである。
とあるマッチングサイトに掲載したのが年も押し迫った年末。1ヶ月後には早速問合せが来た。WEBシステムを作りたいとのこと。初めてだし、割と安めに見積りを出したのを覚えている。何社か見積りを依頼しているよう。祈る思いで返事を待った。2日後、依頼者から連絡が入る。「貴社にお願いしたい」とのこと。この瞬間は本当に嬉しかった。妻にも話した。その日は俺は終始上機嫌だったと思う。遂にやったのだ。受注を取った!その後も見積り依頼は絶えなかった。直接打合せすることもあった。それなりにやりがいも感じていたが、会社が休みの日にやるのは限界があった。この頃が精神的にも肉体的にも一番きつかった。会社を辞める日を設定した。woodsmallを設立した半年後の4月末日。当時フォトスタジオでお世話になっていた上司に相談した。俺実は起業しようと思って会社を辞めたいと思いまして。というか、もう設立はしてるんですが。笑上司え?え?え?もう設立してるの?小林さんには是非とも残って欲しいな。私は小林さんには部長になる位の素質はあると思うの。何とか考え直せない?というように引きとめられたが、俺の気持ちは決まっていた。さて。WEBサイトの他にもアプリの受託案件も多いとのことで、こちらもマッチングサイトで露出していた。当時は、AndroidとiOS両方が開発できる会社が少なかった。『woodsmallは両OSで開発が出来ます!』というのをうたい文句に。実際にはiOSは開発したことは無かったが、Macは持っていた(購入した)し、物理的には可能な訳で。今でも嘘を付いたとも思っていないし、この戦略は間違っていなかったと思っている。会社の退職日が近づいた頃、アプリの受託開発の受注に成功するのである。見積額もグンと上がった。2013年4月12日とても気持ちが良い天気の日だった。その日はフォトスタジオに出勤。当時の会社のナンバー2の上司に電話で退職したい旨を伝える。「すぐに本社に来い!」とのことで本社へ。俺実は本日を持って会社を退職したいと思いまして。。。上司おう、さっき電話で聞いたよ。前の面談の時には、そんなそぶり全く見せなかったじゃないか。俺そりゃそうですよ。笑もう気持ちは決まっています。独立しようと思います。上司そっか、残念だな。。。俺すみません。上司よし、わかった!じゃ先ず退職願を。。。俺ありますよ!はい、どうぞ。上司なんだよ、準備良いな。笑俺印鑑も持ってきてます。会社に返却するのも全て持ってきてます。上司ははっ、小林らしいなぁ。笑ということで、その日のうちに退職。その日までに全て準備はしていたし(PCのデータ等も不要なものは消去済、必要なものは取得済)、昼過ぎには自宅に着いていた。これで、副業が本業になったのである。期待と不安、終日の激務で、その日は横になったら、すぐに寝てしまった。こうして13年間のサラリーマン生活が終わったのである。いよいよ代表取締役に就任し本腰を入れ始めるも、依頼したエンジニアの逃亡、資金難、借金など、困難な問題が山積みなのである。
代表取締役は妻であったので、法務局に行って変更登記申請書を提出した。申請書は自分で書いた。これで、発起人でただの株主だった俺が社長になったのである。受注したアプリ開発は、クラウドソーシングで見つけたエンジニアにお願いした。基本的にはプロジェクト管理をやるだけ。平日でも時間がある時は、ハーレーで走りに行ったりしていた。自由に時間を使っていた。多分世間一般の人がイメージするであろう『社長』のような生活をしていた。前の会社を辞めてから、1~2ヶ月は給与も振り込まれていたので良かったが。それが終わった6月。資金難に陥る。個人のクレジットカードの返済が滞ればブラックリストに入る可能性が高くなる。自転車操業してでも返済したかったが無理だった。もう、どのカードも利用限度額いっぱい使っていたのだ。この時から5ヵ月後の11月、再びカードの返済が滞り、1枚のクレジットカードが使えなくなったと同時に、俺のほぼ全てのクレジットカードが使えなくなった。金融事故、世に言うブラックリスト入り。全ての返済を終えてから5年後まで、クレジットカードの新規発行も、ローンも組めなくなるのである。会社の資金繰りも厳しかった。割と小規模なWEBサイト制作などの案件はコンスタントに受注していたが、その当時の生活費等々を考えれば本当に厳しかった。社長になったら、趣味のハーレーのカスタムでもしよう、とか。ブーツも欲しいなぁ、なんて甘いことを考えていたが。個人としての物欲が一切無くなった。というより意識的に消滅させた、と言うのが正しいかも。この頃から毎月末の支払いのことを考えると胃が痛くなった。家の支払い等は全て妻に任せていたが、全ての支払いを把握する意味でも俺が引き受けた。このまま逃げたら、明日が無い気がした。全ての支払い、期日、金額をエクセルに書いて、その日までに必要な金額が入金されるように、受注した案件の請求期限を合わせていった。売上を上げるとか、そんなポジティブな発想ではなく、とにかく支払いが滞らないように。ついでに、自動車ローンなども含め、今現在の借金の総額がいくらなのかも調べた。その総額350万円。お先真っ暗とはこのこと。正直逃げ出したかった。そう、逃げ出したのである。仕事を依頼していたエンジニアが。「もう出来ません」そんな、そっけないメールとともに、開発中のソースが添付されている。次の日には、クラウドソーシングのアカウントも削除されていた。納期は迫っている。他のエンジニアを探してお願いしたが、結果的にはこっちも1ヵ月後に逃げられる訳であるが。この当時はよくサラリーマンをしてた頃の夢を見た。同僚と何気ない会話したり、かったるいなーと思いながら仕事したり。そんな日常に心底戻りたかった。でも夢から覚めて、居間に行くと、確かにそこには会社を作った時に購入した小さなデスクがある訳で。現実に引き戻されるのである。全てを放り出して逃げ出したかった。正直、起業したことを悔いた。ただ、お客さんに会う時や、知り合いの社長に会う時は、努めて明るく振舞った。「調子どうですか?」なんて聞かれたら『絶好調です!』と軽く答えていた。これは実兄の教えによるところが大きい(実兄も会社経営をしている)。「高志いいか。社長の器ってのは苦しい時に決まる。苦しい時、悔しい時、泣きたい時こそ笑え!」それを忠実に貫いた。笑う門には福来る。そして事態は少しずつではあるが好転してく。
最初に受注したアプリ案件は、当初の納品日を過ぎていた。受託案件に関しては基本的に粗利50%を下回らないこと。これを最低限のルールとしていた。一つの希望の光は、iOS版を比較的単価の高いエンジニアにお願いしていたので完成が間近だったこと。ただ開発費は底をつきそうだった。世間が夏休みでFacebookに浮かれた近況がアップデートされている頃、弊社の戦略を大きく変えた。今までは弊社が仕事を取ってきて、単価の安いエンジニアをクラウドソーシングで探してお願いする。売上重視の戦略だった。でも上手くいかなかった。そこで、取ってきた仕事は全て俺がやる。利益重視に切り替えた。この頃はひたすら働いた、土日祝日関係無く。とにかく何でも俺がやっていたから、気が付けばAndroid、iOS、サーバ周り、PhotoShop・Illustratorを使ったデザイン等、何でも出来るようになっていた。最初に勤めていた会社の出向先の先輩から創業以来の大型案件も頂いた。少しづつだが、会社は上向いていった。最初に受注したアプリ案件は、俺が開発して半月位で完成させた。顧客にも納品したのだが、色々注文を付けてきて支払いをしてくれなかった。2013年11月アプリ案件の入金を期待するも支払われなかった。ここで何度目かの資金難に陥る。前にも書いたが俺個人のクレジットカードのほぼ全てが停止された。新規の受注も順調に取れていたし、一見順調だった。でも受託開発に頼る限り、今後も資金難に陥ることはある。ここでまた弊社の戦略を大きく変えた。労働集約型の受託開発を主とするのでは無く、第二の柱を作ってこの事業を売上全体の50%になるようにする、1年以内に。ただ受託案件は10件ほど抱えていたし、あまり時間は割けない。そこで、当時全体の1%にも満たない自社アプリ(電卓アプリ)の広告収入を大きくしようと思った。収益逓増型を伸ばす戦略を取ったのである。当時のアプリの広告収入は月8,000円程度。まともな経営者なら、そんな判断はしないだろう。ただ俺はこれに賭けた。Goolgeの公開後のノウハウ(英文)を2~3日間かけて隅々まで読んだ。そして、それを一つづつ実践していった。これは割りとすぐに結果が出た。ダウンロード数は右肩上がりになって広告収入は前月比2倍。平均すると14%増で増加していった。支払われることのない最初のアプリ案件は、知り合いの社長に弁護士を紹介してもらい、支払催告状を送ることで、あっさりと支払われた。ここでまた弊社のルールを作った。売掛金は必ず回収する!そんなこんなで創業1周年を迎えた。税理士との打合せで役員報酬を決める日がきた。だが、それは想像以上に安かった訳だが。
2013年12月17日1期目の決算が出たとのこと。税理士との打合せ。淡々と1期目の売上、粗利、損益の説明を受ける。損益は384万円。赤字である。税理士からのアドバイスはこんな内容だった。・とにかく『売上』『粗利』を意識すること・社外への印象等もあり資本金は1万円ではなく最低でも100万円・売上目標は840万円俺的には全然思うようにいってなかったし、全く納得できなかったけど。税理士からすれば上出来とのこと。そして役員報酬(社長の給与)。これは1年目は25万。2期目も25万とのこと。俺は愕然とした。俺いや、ちょっと待ってください。25万じゃ生活が出来ません。今現在でも最低でも40万は必要です。税理士社長。現在のwoodsmallの売上が500万円。そこから外注費・仕入を引いてみてください。逆算しましょう。40万円の役員報酬を支払うには売上は840万円は必要です。俺・・・。返す言葉が無かった。大学の初任給に毛がはえたような金額。これでやるしかなかった。この時から、具体的に目標を掲げるようになった。2期目の売上目標は840万円。月にすると70万円。だけど、デスクの横のホワイトボードに『月の売上目標80M』と書いた。達成できる根拠なんて全くなかったが、とりあえず書いた。税理士に言われた通り、資本金も2回に分けて100万円まで増資した。親父から借金をして。ただ、増資してからすぐに返したが。2期目に入って受託開発事業は順調だった。この頃からマッチングサイトではなく、弊社のコーポレートサイトに直接問合せが来ることが多くなった。マッチングサイトへの掲載を一斉に止めた。また徹底的に経費削減をした。契約書等は基本的に両面印刷。紙も半分になり、郵送料も安くなる。とにかく2013年12月から翌年8月まで、ほぼ休み無くひたすら働いた。『ランナーズハイ』マラソンランナーなどが限界に近くなると逆に気持ち良く(?)なるやつ。俺はスポーツはほぼやらないし、一生味わうことも無いと思っていたが。朝9時から夜11時位までひたすら働いていた時。体はくたくたなのに、頭は冴えまくる。思ったことを、どんどんプログラミング出来る。最高に気持ち良かった。これが『ランナーズハイ』なのかな、と思った。2014年7月遂にその時が来た。2013年11月から本腰を入れ始めた自社アプリ事業。広告収入がサラリーマンをしてた頃の給与を越えたのである。2期目の売上目標840万は達成しそうだったので上方修正し1000万円としていた。翌月売上目標1000万円を達成したのである。月の売上目標である80万円も達成できない月もあったが、気が付けば達成していた。2014年12月19日2期目の決算が出たとのこと。税理士との打合せ。また、淡々と2期目の売上、粗利、利益の説明を受ける。売上1100万円、粗利900万円、利益230万円。実は2期目から売上・粗利・利益は独自でエクセルに付けていたから分かっていたのだが。どうしても、信じられなかった。そして3期目の役員報酬(社長の給与)。税理士社長、3期目の役員報酬はいくらにしますか?俺まだ借金もあります。最低でも45万円は欲しいです。税理士では、計算してみましょう。そうですね、今の売上であれば85万円ですね。俺え??ずいぶん上がりますね!税理士社長、起業とはそういうことです。俺じゃ、とりあえず70万円にしといてください。税理士わかりました。ということで前期の3倍に一気に上がったのである。税理士社長。これで会社は完全に黒字化しました。どうですか、早かったですか?俺そうですね。。。とにかく夢中だったから、あっという間でした。この言葉を聞いた時、遂に会社を軌道にのせることができたんだ、遂にやった!と思った。今までの色んなことが蘇った。家族をA5ランクの肉を出す焼肉屋に連れて行った。アーロンチェアと大きなデスクを買った。ブーツを買った。ポルシェの試乗に行った。そして現在へ。
3期目に入って更に色々なことが順調になった。明確な目標を掲げると必ず達成できる。だから、その時には達成できる根拠が全く無い目標を立てるようになった。woodsmallは税金対策で身内を取締役に入れているが、実質は俺一人でやっている。これから会社を成長させていくにあたって従業員も雇うだろう。企業としての存在意義を明確にする、という意味で企業理念を制定した。今現在は売上予測もかなり正確に出来るようになった。自社アプリ事業(アプリの広告収入)は弊社の売上の60%を占める主力事業に成長した。受託開発事業が2番目。そして第三の柱となる新規事業も立ち上げた。こちらも順調に売上を伸ばしている。そして、上期が終わる4月末で売上見込みではあるが3期目の売上目標も達成した。社員を雇う為、事務所を探している。起業して10年後に生き残る(というか突き抜ける)為、10ヵ年計画も立てた。個人の借金である350万円を4月で完済した。会社のキャッシュは常に数百万ストックできるようになった。妻の軽自動車がボロボロになったので、新車を購入した。軽自動車ではあるが。念願のポルシェを購入した。納車は8月。今現在もクレジットカードについてはブラックリストに入ったまま。ローンは組めない会社もあるし、組める会社もある。正直言うと痛くも痒くも無い。現金で買えば良いだけの話である。一人で会社をやっていると色んなことが起こる。受託でお客さんと揉めたり。自社アプリを模倣されたり。日々自社アプリへの問合せが来たり。とにかく仕事は多岐にわたる。そういうネガティブなことや、厄介なことに一切妥協せず、真っ向から立ち向かうようにしている。絶対に逃げない。そうすると事態は必ず良い方向に行く。会社は順調だし、好きな物も買えるようになった。あとはガレージ付きの広い家くらいだろうか。来期の役員報酬(社長の給与)はビックリする位の金額になるだろう。サラリーマンをしていた頃から今現在でも一貫して思っていることなのであるが。贅沢なんて出来なくても良い。『日々の生活に困らず月に1度くらい家族で外食でもする』それさえも出来なかったから、俺は起業した。そして実現した。弊社の企業理念の一つにこんなのがある。『全ては従業員とその家族の為に』これからは、社員を雇って、従業員とその家族に同じ思いをさせてあげたいという思いから。これから先、困難なこともあるかもしれない。だが、1期目を思い出せば、必ず乗り越えられる気がする。いや乗り越える。今現在は、7年後を見据えて、今出来ることを精一杯悔いの残らないようにやっている。正直、現状のままでも十分満足だし、一人でやっていけば当分は安泰だと思う。だが、常に更なる高みを目指し、常に上を目指したい。今でもたまにサラリーマンをしてた頃の夢を見る。夢から覚めて仕事部屋に行くと、確かにそこにはふたまわり位大きくなったデスクがある訳で。現実に引き戻されて安堵するのである。俺の居場所はここだ!今は起業して心底良かったと思う。第1話から読んで頂いた方、ありがとうございます。特に誇張もせず、事実に基づいて書きました。ただ記憶は曖昧で、一部事実と異なるところもあります。第3話に"会社は何を本業にやっていこうか。実は明確に決めていなかったのである"とありますが、明確にありました。書いてて思い出しました。当初はauスマートパスに自社アプリを提供することを目的としていました。いつかwoodsmallを世界的な優良企業に成長させ、自身のサクセスストーリーとして半生を綴った本でも出版したいと思ってます。『明確な目標を掲げると必ず達成できる』またその日まで。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。株式会社woodsmall代表取締役CEO 小林 高志
前回の最終回を書いてから、どの位の月日が経っただろうか?その後、社員を雇い、都内に事務所を構え、ポルシェに乗り、順風満々に思えた。その兆候は、先ずアプリの収益に現れる。ずっと倍々で成長してきたアプリの売上が鈍化し始める。その時期と同じくして、固定費がかさむ。一人で稼いだ内部留保(会社が保持するキャッシュ)は割と潤っていたが、少しづつ減っていく。2015年の秋くらいから、内部留保も無くなり、社会保険料の滞納も。今まで思い通りに出来ていた事が、少しづつ、本当に少しづつ狂い始める。そして、それが始まると、自分で全くコントロール出来なくなる。受託案件で立て続けに、一方的に契約解除を言い渡される。目標を立てれば必ず達成出来る、出来てた。それが出来なくなる。物事に優先順位を付け、すぐに実行に移す。どんどん色んな事が億劫になり、それが出来なくなる。数年前に読んだ『社長失格』という書籍。他人事のように読んでいたが、自分にフラッシュバックする。毎月毎月、資金が足りない。「また足りないのかよ。。。」自分でもうんざりする。それでも、起業して軌道に乗せた自負もある。それが邪魔したのかもしれない。過去の栄光はどこに行ったのだろうか?少しづつ、それは着実に。着実に今まで築いてきたものが蝕まれていく。ちなみにだが。4期目の決算は散々な結果だった。大幅な赤字。税理士に『こんな決算書、見たことない』と言わせる程。そして、5期目も割と大きな赤字で終わった。破綻への第一歩2017年4月21日(金)休み明けは給与日。また資金が足りない。メインバンク、信金、公庫から追加融資を断られて、ちょうど1年位経つだろうか。社長個人として、銀行のカードローン、消費者金融から借金をして会社の口座に入金して何とかしのぐ日々。その頼みの綱からも断られるようになってしまった。その時は、カードローン、消費者金融から500万位、その他身内から400万位、合計900万位の借金が個人としてあった。もう借りられない。何とか出来ないかとネットで検索なんかをしていると、保険の契約があると、そこから借入が出来るとのこと。結局子供2人に掛けている学資保険から借入し、なんとか会社の口座に入金した。何とか、今月もしのげた。来月以降のことを考えると、めまいがするが。2017年4月24日(月)何とか現状を打破したい。ネットで血眼になって調べてると、東京商工会議所で無料で経営相談をしてくれるそう。今日の午後からその打合せに向かう。打合せの前に東京駅でトイレへ。そこで携帯に着信。メインバンクの担当者から。どうせ何かの営業電話だろう。打合せが終わってから掛け直そう。所員2名と打合せ。現状を説明し、このまま経営を続けて良いのか聞いた。(この頃は会社を畳むことも視野に入れていた)ここで見覚えのある固定電話から着信。メインバンクからだ。打合せを続ける。所員2名の感想としては、会社の借入額も少ないし、売上拡大を狙って十分立て直すことは可能だろう、ということだった。次回は経営コンサルタントも交えて打合せとのこと。打合せが終わり、銀行の担当者に折り返すも不在。固定電話に折り返し、多分担当者が掛けてきただろう旨を相手の女性に伝える。東京駅は帰宅途中のサラリーマンやOLもちらほら。携帯が鳴る。いつもの調子で携帯に出る。相手:「私、◯◯銀行△△支店の支店長をしております◯◯です」俺:(・・・支店長?)◯◯支店長:「結論から申します。会社と社長個人の銀行口座が差し押さえられました。」俺:(・・・サシオサエラレタ?)「えっ?」思わず聞き返した。俺:「25日に給与振込申請もしてるんですが、それもダメですか?」◯◯支店長:「はい、差し押さえられている状態ですので、一切の入出金は出来ません。」◯◯支店長:「今後の対策を練りたいと思いますので、大至急ご来店頂けないでしょうか?その際お持ち頂きたいものがございます。銀行口座の印鑑・・・(略)」携帯を切って、とりあえず駅に向かう。どっと疲れが押し寄せる。どう乗り切れば良いのか?誰に聞けば良いのか?これからどうすれば良いのか?あれだけ苦労して入れた金が差し押さえられた。その事実だけが、のしかかる。結局のところ、会社の資金力は限界を超えてしまったのだ。それ以上に、俺のメンタルも限界を迎えつつあった。
Xデー2017年4月25日(火)この日が何の日かを覚えているだろうか?北朝鮮との緊張が高まり、ミサイルを発射され、そのまま戦争に突入する日、Xデーと言われていた事を。奇しくも弊社(woodsmall)にとってXデーとなるとは。。。メインバンクへ朝一でメインバンクに出向く。営業担当宛てに行ったが出てきたのは昨日電話で話した支店長だった。メインバンクで担当の営業以外の人と会うのは初めてだ。早速、差押書(厳密には差押調書謄本)を見せてもらう。送り主は年金事務所。未納分の社会保険料が一覧で記載されてある。原因は7ヶ月程度の社会保険料の滞納があったから。ここで銀行側から別の書類を出されて捺印を促される。書類の内容は、貴社への貸した金の月々の返済額等は、一旦白紙とする。尚、差し押さえが解除されてから改めて、保証協会と協議の上、返済額等を決めることとする。そんな感じ。要は、銀行側からすればいつでも貸しはがしが出来ますよ、という内容。銀行側には「何としても年金事務所からの一括返済だけは避けてください。ここまで強行にくるということは、一括返済を要求してくることも十分考えられます。」と言われた。進展があったら、随時連絡を取り合う事で銀行を後にする。年金事務所へその足で年金事務所へ。早速担当者と話をする。いつもの担当者と。年金事務所側からすれば、社会保険料の滞納は、どうしても許せない。とのこと。そりゃそうだ。でも、こっちとしても払いたくても払えない。払う為の原資が無いのだ。重い空気が流れる。結局2時間睨めっこが続き、1ヶ月分を払う事で、差押えを解除する、という事で落ち着く。今日中にメインバンクへの差押え要求を引き下げる手続きはしてくれるとの事。後日、滞納分の返済計画を提出する事で今日は終わった。正直、1ヶ月分を何の支払いを遅らせて支払うか頭の中でグルグルする。自社へ腹が減った。昼飯の時間だ。メインバンクに電話をする。年金事務所とのやり取りを一通り説明する。「それで納得してくれたんですか?」と、支店長が納得がいかない様子。とにかく、これで一歩前に進んだのだ。電話を切る。さて、何から手を付けよう。社員には一通り、今の状況を説明する。給与の振込は今日中は無理だが明日以降になる事を伝える。もうここまでくると、物事の優先順位が付かなくなるのだ。何を優先すれば良いのか分からなくなる。そして、何が大事なのかも。ぼんやりと東京商工会議所の担当者と今後の事を話あった事を思い出す。「社長、いつ、いくら足りなくなるんですか?」ぼんやりとは分かってるんだけど、即答出来なかった。「社長、日繰り表を作る事を勧めます、是非作ってみてください。」※日繰り表は資金繰り表を更に細かくしたもの。入金と出金を一覧にする事で、資金がショートするタイミングが分かるとりあえず、4月分を作ってみた。だいたい予想通り。5月分も作ってみる。給与日の25日、色々な支払いが重なる月末、クレジットの支払いの10日。この日が赤くなる(資金のショート)。トータルで100万円前後足りない。徹底的なリストラ大学時代は経営学を専攻していた。専攻といっても、他に興味が無かったからだが。消去法。その時に印象的だったのが、教授の言葉。「日本でリストラと言うと人員削減が一般的だが、経営学でリストラとは事業再構築の事を言う。固定費の削減や事業の見直しが本来のリストラ(事業再構築)だ。」机上の空論なんて糞食らえだ!ずっとそう思っていたが、理にかなってる。リストラする判断基準として『1円でも生み出さないものは切る!』とした。日繰り表の上から、その基準から切っていく。該当したのが以下。・ポルシェ・広告費・生命保険・社員の給与・社長の役員報酬の減額※社員に関しては、ちゃんと売上を上げていたが、給与に見合っていなかったということ(当時は、頼るあてもなく、唯一相談にのってもらったのが実兄。会社経営をしている。その兄から「金を貸す代わりに無駄なものは全て切れ!」と言われたから、というのもある)実を言うと、この頃は廃業(倒産)をかなり意識していたので、終わらせるなら、なるべく最小限にしようという気持ちが強かった。こう決断してから行動は早かった。考えると迷いが出る。だから一切の思考回路を停止して、ひたすら身体を動かした。まず、日繰り表を印刷して社員とバイトに見せた。今のウチの会社がどんな状況なのかを説明し、今月中に辞めて欲しい旨を伝えた。事務所の契約を解除する為、違約金の掛からない最短の7月末で退去する旨を不動産屋に伝える。個人を含め、全ての生命保険を解約する為、保険の担当者に電話。契約している広告を辞める為、片っ端から電話。ショートするタイミングは、これでも変わらない。でも、ショートする金額は確実に減った。差押え解除メインバンクの銀行口座が差押られて3日後の4/27。年金事務所から差押解除通知が届く。普通郵便で。早速メインバンクの支店長に電話するも銀行には、まだ届いて無いとのこと。正直、速達で送って欲しかった。結局、翌日メインバンクにも解除通知が届き、差押解除の手続きが行わなれた。解除された直後に、社員や各所への振込を行う。本当に長い4日間だった。妻にも、やっと生活費を振り込める。振り込んだ直後に、妻へLINEをする。『先程、振り込んだ。本当に迷惑かけました。』この4日間、本当に神経をすり減らして、駆け回ってきた。きっと労(ねぎら)いの返信があるだろう。そう期待していた訳だが。妻からの返信は思いがけないものだった。「離婚を考えています。裁判所で調停して離婚したいので今直ぐ、この家を出ていって下さい。」やっと、平穏に戻れる。そう思った矢先、崖から突き落とされるのである。
目のまわるような日々妻から言い渡された一言から、会社の資金繰り・立て直し・事務作業・事務所移転に加えて、妻への説得作業が加わった。正直、今家を出るとなると、泊まる所を確保しなきゃだし、第一金銭的にも時間的にも、そんな余裕は無かった。この頃がメンタル的にも一番滅入ってた頃だと思う。経営コンサルタントが現れて。コンサルタント:「社長、今現在、社長には生命保険が掛けられています。社長が亡くなれば、その保険金で借金は全て返済可能です。15:13にJR新小岩駅に快速電車が来ます。それに飛び込んで下さい。後のことは私がやっておきます。」なんて言われたら、俺は間違いなく飛び込んでたと思う。特に人生に悲観してとか、そういう訳ではなく、会社を精算する一つの手段としては、アリだと思っていた。実際、生命保険の担当者に自殺した場合、保険金がいくらになるかも問合せていた。結論から言うと、自殺してチャラにするのではなく、保険を解約し運転資金に回し、生きて地道に返済していく道を選んだ訳だが。自分がやりたくないことをやる一通り固定費の削減も完了した。ただ、売上を拡大しないと資金がショートする。色々考えたあげく、自分が一番やりたくないことを、あえてやることにした。(過去の経験から、そうすると上手くいくことが多々あったから)業務委託契約の客先常駐、SESと呼ばれるもの。もちろんエンジニアとして。もうプログラミングなんて1年以上やってない。現役の頃は、書くのも早い方だったし、割りと自信もあったが。もう40歳も過ぎた。一般的にはエンジニア(プログラマ)は45歳までと言われている。俺はまだ通用するのだろうか?試してみたかった。早速、SESを専門にやっている会社に登録し、早速面接するも、結果はさんざんだった。この頃は、会社のこともあったし、結構落ち込んだ。暗く長いトンネル会社の売上拡大の為に、何とか今までと違うことをやらないといけない。それに加えて妻への説得を続ける。説得する、というより、色々話を聞いた。が、妻の口から出る言葉は、俺への罵倒と経営者としても父親としても夫としても否定し続ける言葉だった。そういう言葉を2週間聞き続けるとどうなるか?答えは、全く言葉が耳に入らなくなるのである。自己防衛本能だろう。当時は妻にに対して愛情もあった。が、いつしか憎しみしかなくなるのである。それは、子供への愛情を超えるのである。これが俺が離婚を決意した瞬間である。身の程を知る会社が好調だった頃、色んなモノや地位を手放して、会社を倒産させる気分ってどんなんだろう?生活水準を落とす気分はどんなんだろう?と考えたことがある。きっと惨(みじ)めなんだろうな、と。俺は、このたった数週間で本当に多くのモノを手放した。というか、失った。でも、俺はこの時、こう考えるようにした。『今の俺には必要無いモノなんだ。身の程に合ってないんだ。』そう思うと、自然と今の現実を受け入れられた。今の俺にはポルシェも、割りと大きな事務所も、社員も必要ない。そして、家族も。第三の柱となる事業この頃は、いったいどれだけの時間、日繰り表を見ただろうか。会社で何かの支払いが発生したら見て、家では何とか打開策がないか見た。(実際に夢にも出てきた・・・。)何かの仮説を立てて、シュミレーションがてら数字を入れ替えたり。とにかく削れる固定費は徹底的に削った。あとは売上を拡大させるしかない。そこでSES(業務委託契約の客先常駐案件)をやった場合でシュミレーションをする。すると見事に資金のショートが無くなり、8月から黒字化することが分かったのだ。早速2社目の面接を受けたが、早々に内定を頂く。結局5月下旬から働くことが決定した。それと同時に、創業以来2回目の軌道にのることになる。第三の柱となる事業は、年初の目標にもしていたし第3期目から目標にしていた。思わぬ形で実現することとなる。軌道に乗る不思議なのだ。上手くいかない時は何をやってもうまくいかない。でも一旦軌道にのると、何もかもが上手くいくのだ。今まで空回りしていた歯車が上手く噛み合っていく感じ。7月。全く広告費を掛けてない、第1の柱となる受託開発事業。知り合いのつてで、あっさり受注が決まる。これで第6期目の完全黒字が確定する。第2の柱となる自社アプリ事業。売上も右肩下がりになっていたが、前々からやろうと思っていた施策(約1ヶ月かけて仕事終わりに実施)がドンピシャで当たり、売上はV字回復。最近では日繰り表を見る機会もめっきり少なくなった。支払う前に、それ以上の入金があるので、見る必要が無くなったというのが正しいか。経営者(というには今となっては恥ずかしいが)にとって、最大の精神安定剤は資金繰りから開放されることだと思う。たまたま運が良かった1回目の会社を軌道にのせた時、俺は絶対的に自信があったし、運などではなく自分がやったことの結果だと信じて疑わなかった。それは、他人からすると『天狗になっている』と思われてもしかたないような言動をとっていたのかもしれない。実際、そう指摘されたりもした。今はどうだろうか?銀行の差押えまでなって、倒産も逃れてV字回復出来たこと。俺の実力だろうか?今は全く思わない。倒産させて去っていく経営者と俺の違い。それは、ほんのちょっとだけ、たまたま俺の方が運が良かっただけだと思ってる。神様の気まぐれで、たまたま俺に微笑んでくれただけなのだ。現状2017年12月、9年付き添ってきた妻と調停の末、離婚が成立した。最愛の息子とは、ほとんど会えないが、またいつか、昔のように遊べる日を楽しみにしている。会社の方は順調で、12月に第6期目の上期の決算が出たが久々の黒字。完全に復活したと言っても言い過ぎではない。ただ、個人としては、会社がピンチだった時にひたすら、消費者金融とカードローンから借り入れた1000万近くの借金があるので、ひたすら返済している。俺は昔から欲しいものがあったら借金してでも買っていたので、全く苦ではない。むしろ励みになる。これからと夢と今やりたいことは?と聞かれたら「特に無い」と答えるだろう。会社を都内に移転させた2015年10月頃から、ずっと資金繰りという荒波に揉まれてきた。ようやく海も穏やかになり、幌を張り、わずかながらの心地よい風で船は進んでいるのだ。今はこの状態を一人で楽しみたい、というのが正直なところ。まぁ強いて言えば、息子に会いたいかな。今の状態を2年ほど続け、内部留保(企業のキャッシュ)を十分に増やして、また山手線内のどこかに進出したい(今現在では渋谷に進出予定)。夢は強いていえば、50名程度の規模で会社を経営をしてみたい。この位の規模は、起業した者であれば、誰もが憧れる規模ではないだろうか。気が付けば起業して5年の歳月が過ぎた。誰もが、自分は選ばれし者、必ず世界に羽ばたいて世間を席巻してみせる!最初は、そう思うだろう。しかし、俺はスティーブ・ジョブスのように革命的な製品を世に出すような才能もカリスマ性もない。本田宗一郎のような情熱で世界に登りつめる人間性もない。ただの凡人だと気付くのである。最後にこれは、誰かに影響を与える為に書いた訳でも、この中に強烈なメッセージが含まれている訳でもない。今から数ヶ月前に実際に起きた、俺にとってはまさに人生の岐路であっただろうことを言葉に残したかっただけ。この数ヶ月で起こった強烈な荒波は、俺から余計な贅肉(ぜいにく)を奪い去り、本当に必要最小限の僅かなモノだけが残った。贅肉が取れれば身軽になる、なった。会社は需要が無ければ終わる。需要があるうちは続けよう。今は、そんな気持ちである。現実は、特にドラマチックでも、必ずしもハッピーエンドでもない。淡々と日々日常が流れていく。この荒波で本当に大切なものが、この手からすり抜けてしまった。でも、また復活して、この手で掴むだけの体力が養えれば、きっと掴み取れると信じている。株式会社woodsmall代表取締役CEO 小林 高志